今、過去を従え未来へ生きている。一瞬ごとに「今」を消化し、いや義務的に「未来」を 受け入れながら。深刻な問題の前では、未来は不確かな予測し難いものだが、深刻ではな い平穏な日常の前では、未来は自然な成り行きとなる。やって来る近い未来が自分にとっ て当たり前のように。これは深刻かそうでないかという自分の主観による感じ方であって、 時間の流れから見れば、大差の無い、むしろ等価値のものである。そうであれば、10秒 後の自分が当然の成り行きと感じるように、自分の遠い未来の人生も本当は、この身体の どこかで感じているのかもしれない。無意識的に。
未来に向かっているつもりが、もしかしたら決定している、してしまっている「過去」を 生きているのかもしれない。決定している「死」から見れば全ては「過去」となりえる。「未 来」である「過去」の自分から「過去」である「今」の自分の記憶の回想をしているだけ なのかもしれない。
しかし、自分に注意深くしていれば、自分と向き合っていれば、「死」の直前までの「未来」 、本当に不確かな「未来」、無限大の選択肢のある「未来」を生きられるのかもしれない。 先の見えないドアを1つ1つ開けるように。自分は止まっていても時間は休むことなく進む。 毎日人生に踏み出していなければ、述べたように「未来」は既に決定された「過去」になっ てしまうだろう。時間を受け入れざるを得ない単純な選択によって。しかし、毎秒ごとに無 限大の選択肢を感じられる人生なら、もしかしたら運命的に決定してしまっているかもしれ ない人生、「過去」となってしまっている「未来」も、それはそうなってしまっている可能 性があるというだけの話になり、ましてや当人にとってはそんなことを感じるはずもない、 魅力的な「未来」になるだろう。「未来」に不安を抱き、希望を持つ人生になるだろう。時 間の長短に関係なく自分の個性のある人生になるはずである。
「人間皆平等である」と言うが、自分の中での自分の追及、満足、充実感という意味ではま さにそうである。欲から他者との比較をするからブレてしまうのだと思う。幸せは比較せず、 辛い境遇こそ比較すればいい。そうすれば、まるい社会になるような気もする。自分と向き 合ってこそ他者も助けられると私は思う。