私は好きな建築家を聞かれた時いつも、ル・コルビュジエとピーター・ズントーと答えます。もちろん建築業界を熟知しているわけではないのですが、この二人だけは私の頭から離れることはありません。今回は彼らそれぞれの魅力と私の思いを書きたいと思います。 「住宅は、住むための機械である。」という言葉を残したコルビュジエ。彼はフランク・ロイド・ライトやミース・ファン・デル・ローエらと共に代表される現代建築の巨匠である。しかし私は他の巨匠達よりもコルビュジエが好きです。「住宅は、住むための機械である。」という、一見非人間的な冷たい感じを与えるこの言葉に惹かれた部分もあるのかもしれません。 彼のサヴォア邸、ロンシャンの教会、マルセイユのユニテ(集合住宅)などの建築作品を見ても冷たい感じというのは全く受けません。むしろ、様々な色彩と形態。そして住むということの日常性を感じます。それなのにあえてこの言葉を選んでいるところが面白いなと思いました。実際彼は、サーキュレーション(循環)という言葉を多用し、交通を血流に例え、都市を生きた「有機体」と考えていました。そして「太陽、空間、緑」というキーワードをしばしば使い、建築の目的を、陽光と静けさと新鮮な空気をもたらし、最終的に住む人々に「生きる喜び」を与えることと考えていたと言います。人が住み、集うエコロジカルな社会を理想としていたようです。「住宅とは…。」などのように自分で何かを定義付ける場合、簡潔な言葉を用います。しかし、そこであそこまで削ぎ落として表現するには自己のスタイルの確立と強い信念がなくてはできません。万人に理解されるような言葉もあった中で、あえて偏った表現をする頑固さも彼の魅力だと思います。 幸運なことに日本にもコルビュジエの建築が1つあります。それは東京、上野の西洋美術館です。私も一度ロダンの彫刻を見に訪れたことがありますが、素晴らしい美術館でした。しかし、普通の住宅建築が無いのが残念で仕方ありません。どうしても住みたければ、スイスかフランスかというところでしょうか。ちなみに、ベルギーのデザイナー、アンドゥムルメステールはベルギーにてコルビュジエ建築に住んでいるということです。初めはコルビュジエのものとは知らず決めたらしいのですが。いい感性というのは引き合うのでしょうか。悔しい…。 スイスの美しい田舎の村で自らの信念を曲げず、スローアーキテクチャーを体現しているピーター・ズントー。既存の建築、進行中の建築のどれを見ても、資本主義的なビジネスにのった建築はありません。ブランディングやマーケティングには全く興味が無いと言い切る。私の好きな要素が全て入っているという建築家です。そして実際の建築もクラフト的に美しく、構造的にも優れた建築です。その代表がスイスのアルプスの山深いヴァルスという村にある、温泉施設です。その土地で採れる石を薄切りにして積み重ね、それ自体を枠型にして鉄筋コンクリートを打った構造で、石自体が構造をなしている建築なのです。私がどうしても行きたい場所の1つです。 彼は建築を創造する際に最も重要なこととして、「場所」と「用途」を挙げます。そして建築とは人の営みのために作られるべきで、「象徴」になることや「声明」を出すことを目的に作られるべきではない、としています。そしていつも「クオリティーの高いよい建築を作りたい」と言っています。 アトリエの庭で野菜を栽培し、それを料理して所員たちと楽しくランチをとる。多忙でありながらも生活というものを大切にしています。人の営みのための建築を手掛けているズントー。しかしながらその前に、彼のすごく自然な営みが素敵でなりません。当人のリズムというのが建築にも伝わるものなのですね。景色に馴染み人に馴染む。 私は彼が仕事を続けている間に手紙を書こうかなと思っています。私が誰かに依頼して家を建てるということになった場合、どうしても彼に設計して欲しいのです。美しい家で美しい生活をしたいのです。夢で終わらぬように、まずは仕事を頑張ろうかなと思っています。
「ある男の話」
その男は不思議な魅力を持っています。ぶっきらぼうで生意気なのですが、何故か憎めない。わたしよりかなり年下なのにも関わらず敬語もほとんど使わない。でも私はこの男から最近いくつか学ばされたことがあります。 男は食にはさほどこだわりを持っていません。好き嫌いもかなりあり、食わず嫌いもたくさんあります。しかし、その中でラーメンには多少の好みがあるらしいのです。それで私は自分がお金を出して食べる2店の内の一軒に男を連れて行きました。そこは中心部から少し離れた場所にあり、その店に行くという目的以外はないというところにある、こだわりの強い店です。ラーメンや中華料理というのは旨み(化学)調味料(アミノ酸)を全面に押し出している店がほとんどです。だからどこで食べてもたいした違いはなく、後味だけがギトギトとして残ります。しかしその店は素材を大切に扱い、ラーメンも大切にしています。そんな店で食べた後、男は「今まで札幌で食べたラーメンで一番うまい。」と言いました。私が上で述べたような能書きや薀蓄なぞ関係なく、自然食に興味があるわけでもないのに、一度でうまいものを感じとったのです。美味しいものは誰が食べてもおいしいものですが、私のような回りくどい人間が時間をかけて探して、味わった感覚に一瞬で追いついてしまうのです。誰かがうまいと言ったから、なんていう発想は微塵もありません。無知なはずなのに一番を見分けることができるのです。私はこの直感力に嫉妬を覚えました。私自身もそれには割と自信を持ってはいますが、全く情報の無い中で当たり前のように自分の感想を言い、しかもそれがその通りということは、全員ができることではありません。 もう一つ似たようなことがありました。私が仕事帰りに洋服を見て行こうとしていると、男も行くといいました。それで一緒に見て回ったのですが、男はスポーツメーカーのナイロンパンツに同じメーカーのTシャツ、スニーカーといった格好でした。私個人的には嫌いではないですが、そのスタイルを狙ってきているわけではありません。楽だからその格好で来たというだけでした。その男は普段高い服はほとんど買わず、そういう店にもほとんど行ったことが無かったので、高くていいものを置いている店に連れて行って欲しいと言ってきました。私はまた悪い癖で、男が喜びそうで今の格好で行ってもおかしくない場所を頭の中で探していました。そうしていると男は「あのTシャツが置いてある店に行きたい。」と言ってきました。あのTシャツとは、私達共通の知り合いが着ていたヴィクター&ロルフのものでした。私はビックリしましたが、希望だったのでヴィアバスストップに男を連れて行きました。すると、店には決して馴染まない格好でウロウロしながら、付いている値札を次々と見ては目を丸くし、驚き、しきりに「こんなの買う奴いるのかよ」と言っていました。しかし、ヴィクター&ロルフのTシャツを見つけると「やっぱりこれいいねえ。」と言い1万7000円くらいもするTシャツを買ってしまいました。これがヴィクター&ロルフのものだとは知らぬまま。買い終わった後私にこの店とデザイナーの名前を何度も聞いて、デザイナーがパリコレの第一線で活躍していると知ると、「俺がこんなの着ていいのかなあ。」と照れ笑いしていました。 私はこの男からストレートに、自分の自由に生きる、ということを再確認させられました。自由にしているつもりが、いつの間にか情報に縛られ、きれいなレールを作ろうとしている自分に気付きました。男の細かいことは面倒臭いという怠慢と、これでいいやという直感力。これがとても心地よかったのです。好きで勉強してきたつもりの自分が、少しだけ格好悪く感じました。こんな直感で格好いいものばかりを選べる男はなかなかいないですが、とりあえず雑誌でもなく人でもなく、自分の感性だけで勝負してみる男でありたいと思いました。本当の意味でのアナーキーな男。秩序の中で秩序を壊すのではなくて、無秩序で生きているが、秩序を乱していないというかっこいい人間になりたい。そう強く思いました。
「古さと科学」
古いものは良い。私は好きです。衣服、家具、建築、車、時計、本、映像、音楽、・・・。全てではないが、酒も時間が経てば経つほど輝くものがあります。何とも言えない存在感。艶。ワビ感、サビ感。道端にただ転がる小石でさえ、時間の空気を有しているのです。 我が家にも1900~1950年くらいまでのものが生活に入り込んでいます。私はこの古いものが入り混じった生活が気に入っています。温故知新とはよく言ったもので、隣にいい時間を過ごしてきた古いものがあると、現在の新しいデザインのものの出所というか、原点というのがよく分かります。そしてそれぞれの個性というのも引き立ってきます。最近購入したイギリスのスツールも、子供用のチャーチチェアも1910年くらいのものらしいのですが、100年近い時間の経過によるすばらしい熟(な)れた色と、古さを全く感じさせない非常に完成された形が両立しています。 民藝運動の提唱者である柳宗悦を父に持つ、工業デザイナーの柳宗理は純粋な美を「アンコンシャス・ビューティー」、「無意識の美」と呼んで、自己の創作の究極の結実に位置づけています。それはデザイナーが意図的に実用のためにデザインを考えることを前提とすると、容易にはたどり着ける境地ではない非常に難解なものです。我々素人レベルの話ではまず、その見極め、判断も定かではないのですが、しかし、古いものというのが1つのヒントとなっていると思ってもいいのかもしれません。古いということは必然性を多く含むことが多いからです。デザインというより、生産という言葉の方が近いからです。それらの必要最低限の用途による美しさ、深みの出た木の色、ペンキの剥げた金属はアートとまでは言いませんが、少し見入ってしまいます。 私は何故この年代のものが好きなのか。それはちょうど、「より~」という過便利、過デザインの多くなっている近年以前、リーバイスの創立(1800年代後期)。バウハウスの創立(1900年代前期)。ヌーベルバーグの流れ(1900年代中期)。2度の大戦など、新しいものの芽生えのきっかけとなる出来事が数多く起きた時期に重なるからだと思います。今私の日常にあるものの元になるものが多く生まれた時期でもあります。過剰な装飾の無い、機能とデザインのいいバランスでの融合がなされているもの。このようなものに惹かれてしまうのです。 現在は人間工学、ハイテク技術、CG技術、空気工学、人工素材など科学分野の進歩により、スマートな形態のものが多くデザインされています。しかし、時間の経過に耐えうるベーシックでありながら単独の個性を持つものというのは、なかなか作れるものではありません。デニム1つをとっても科学物質で染めたり,機械で色落ちさせたりするものではなく、長く使うために丈夫に作られたものの方が、深い味が出ます。本来数十年経過しなければ出てこない風格を超短期間で似せて作ってしまえる技術。それはそれでいいことだと思います。流行とはそういうものですから。しかし、自然に勝る人工というのはそうあるものではありません。 ただ、いくら大切にして深く思っても、戻ってこない過去にだけ目を向け尊敬するのでは、新しい本物を生み出すことはできません。先程はデメリット部分だけを言いましたが、現代は進歩した科学を効率よく利用することで、古きよき時代では作りえなかったものを作り出す可能性を多大に秘めています。それは継承されてきた文化遺産を守っていくことと同じくらい大切なことです。現在もまた、振り返った時古きよき時代と思われるような時代にしなくてはなりません。これだけものが、広く深く生み出されている時代に過剰な責任だけ押し付けるのはよくありませんが、今の時代に合った、「無意識の美」というのを意識していかなければなりません。ビジネス先行ではなく、必要なもの生み出すという基本に戻って、デザイン、生産をしていった方がいいように思います。科学というのは裏腹に強欲というものを含んでいますから。