照れ屋という性格もあって、私にはこれと言える輝いた青春がなかったように思います。そこそこ勉強して、運動してという、あまり面白みのない優良学生 だった気がします。本人はかなり一所懸命なんですが。しかし、暗黒時代と言われた中・高が終わると、好奇心最高潮の大学時代がやってきました。 今回はその時のエピソードを1つお話ししたいと思います。
それは私が19才、大学1年生の時でした。
洋服に興味が強く、デザイナーの服を買って、少し着てはそれを売って、その金でまた買ってという、マイナスしか生まれない活動をしていた頃、東京ではちょうどクラブブームでした。私も音楽が好きだったので様々な音を求めて、渋谷、麻布、青山などのクラブを回っていました。
クラブブームの中でも、カッコいいクラブとそうではないギャルが集まる、ただ盛り上がるだけのクラブがあります。私はカッコいい音のクラブばかり回り、いろいろな 交流を持ち、楽しんでいました。
そんなある日、ほとんど唯一と言っていい、友人が「俺達もイベントやらないか?」と言っていました。
私もDJをやってみたいという気持ちがあったのでO.K.し、やることにしました。しかし、やるに当たって、とりあえず、 ターンテーブルが必要でした。親の仕送りで生活していた私達には、そんなお金もなく、(しかも、私の場合、洋服を買っていたので) 困って話し合いをしていました。
その時どういう話し合いで決まったかは忘れてしまいましたが、結局、私が借金をして購入するということに落ち着いてしまっていました。 私達はレコードではなく、CDしかなかった為、CDJというPioneerの製品を買いました。CDJとミキサーのセットで、16.7万だったように思います。
渋谷の楽器店でそのCDJセットを手にし、大学のあるつくばに帰るバスの中では、何か切ない気持ちの方が大きかったような気がします。
東京のクラブで青山の「blue」麻布の「Yellow」という熱いところがあったので、私達はユニット名を色にちなんで、「Purple」にすることにしました。 これは、フランスでエレン・フライスが編集長の雑誌の名前をパクッただけだったんですが、当時の私達にとっては何か、他の若者との 差別化を計ったような、ほんの少し、優越感に浸れる名前でした。
コンセプトが「最先端の音楽をつくばで」ということでしたので、拠点 をつくばにし、初めは場所も確保できないので、私のアパートの1室でやることにしました。大量のCDを収納する洒落たラックを買い、間接照明にし、ビール、リキュール も大量に買い込み、部屋を整えていきました。そして、パソコンでフライヤーを作り、周辺アパートのメールボックスに100枚くらい入れて、更に大学内で感じの良さそうな学生に手渡しで、配っていきました。
そんな準備を滞りなく済ませ、当日を待ちました。
P.M.7:00。
その時代最高にカッコいい音をガンガンかけて 、つくばに不満を抱える若者を待っていましたが、なかなか来ません。 これはおかしい。緊急会議を開き、音を変えたり、窓を開け、音を外に漏らしたりして、変化を期待しましたが、時間だけが過ぎていきました。
A.M.2:00。
カウントダウンTVの後のCDグルーヴというクラブミュージック の番組を見ながら反省が開かれました。自分達で買った酒を飲みながら。あの夜が1番長かったような気がします。会心のアイディアもなく、次の週に向けてとりあえず準備をする「Purple」でした。
次回へ。