古いものは良い。私は好きです。衣服、家具、建築、車、時計、本、映像、音楽、・・・。全てではないが、酒も時間が経てば経つほど輝くものがあります。何とも言えない存在感。艶。ワビ感、サビ感。道端にただ転がる小石でさえ、時間の空気を有しているのです。
我が家にも1900~1950年くらいまでのものが生活に入り込んでいます。私はこの古いものが入り混じった生活が気に入っています。温故知新とはよく言ったもので、隣にいい時間を過ごしてきた古いものがあると、現在の新しいデザインのものの出所というか、原点というのがよく分かります。そしてそれぞれの個性というのも引き立ってきます。最近購入したイギリスのスツールも、子供用のチャーチチェアも1910年くらいのものらしいのですが、100年近い時間の経過によるすばらしい熟(な)れた色と、古さを全く感じさせない非常に完成された形が両立しています。
民藝運動の提唱者である柳宗悦を父に持つ、工業デザイナーの柳宗理は純粋な美を「アンコンシャス・ビューティー」、「無意識の美」と呼んで、自己の創作の究極の結実に位置づけています。それはデザイナーが意図的に実用のためにデザインを考えることを前提とすると、容易にはたどり着ける境地ではない非常に難解なものです。我々素人レベルの話ではまず、その見極め、判断も定かではないのですが、しかし、古いものというのが1つのヒントとなっていると思ってもいいのかもしれません。古いということは必然性を多く含むことが多いからです。デザインというより、生産という言葉の方が近いからです。それらの必要最低限の用途による美しさ、深みの出た木の色、ペンキの剥げた金属はアートとまでは言いませんが、少し見入ってしまいます。
私は何故この年代のものが好きなのか。それはちょうど、「より~」という過便利、過デザインの多くなっている近年以前、リーバイスの創立(1800年代後期)。バウハウスの創立(1900年代前期)。ヌーベルバーグの流れ(1900年代中期)。2度の大戦など、新しいものの芽生えのきっかけとなる出来事が数多く起きた時期に重なるからだと思います。今私の日常にあるものの元になるものが多く生まれた時期でもあります。過剰な装飾の無い、機能とデザインのいいバランスでの融合がなされているもの。このようなものに惹かれてしまうのです。
現在は人間工学、ハイテク技術、CG技術、空気工学、人工素材など科学分野の進歩により、スマートな形態のものが多くデザインされています。しかし、時間の経過に耐えうるベーシックでありながら単独の個性を持つものというのは、なかなか作れるものではありません。デニム1つをとっても科学物質で染めたり,機械で色落ちさせたりするものではなく、長く使うために丈夫に作られたものの方が、深い味が出ます。本来数十年経過しなければ出てこない風格を超短期間で似せて作ってしまえる技術。それはそれでいいことだと思います。流行とはそういうものですから。しかし、自然に勝る人工というのはそうあるものではありません。
ただ、いくら大切にして深く思っても、戻ってこない過去にだけ目を向け尊敬するのでは、新しい本物を生み出すことはできません。先程はデメリット部分だけを言いましたが、現代は進歩した科学を効率よく利用することで、古きよき時代では作りえなかったものを作り出す可能性を多大に秘めています。それは継承されてきた文化遺産を守っていくことと同じくらい大切なことです。現在もまた、振り返った時古きよき時代と思われるような時代にしなくてはなりません。これだけものが、広く深く生み出されている時代に過剰な責任だけ押し付けるのはよくありませんが、今の時代に合った、「無意識の美」というのを意識していかなければなりません。ビジネス先行ではなく、必要なもの生み出すという基本に戻って、デザイン、生産をしていった方がいいように思います。科学というのは裏腹に強欲というものを含んでいますから。